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2010年11月29日
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昭和19年(1944年)10月20日、アメリカ軍が、フィリピンのレイテ島へ上陸を開始しました。レイテ島沖に、大艦隊に護られたアメリカの輸送船団を置いての上陸作戦です。

アメリカのルーズベルト大統領マーシャル参謀総長は、はじめ、フィリピン奪回作戦には反対だったそうです。それよりも先に、日本本土を徹底的に爆撃して、台湾か沖縄を取れば、フィリピンをはじめ東南アジアに展開する日本軍は、補給を絶たれて自滅する、と考えたのでしょう。

しかし、マッカーサーにしてみれば、当時のフィリピンはアメリカ領であり、2年前に部下将兵を置き去りにして、”I shall return !” との言葉を残し、オーストラリアへ脱出した苦い思いがありました。それで、犠牲を払ってでも、何とかフィリピンを奪回したかったのです。


         炎上する日本軍陣地
             アメリカ軍の艦砲射撃で炎上する日本軍陣地

レイテ島攻略に投入されたアメリカ軍兵力は約20万。航空機は4千3百機。猛烈な艦砲射撃ののち、上陸を開始しました。


         レイテ島に上陸するマッカーサー
     アメリカ軍将兵と共にレイテ島に上陸するマッカーサー(中央・出典 Wikipedia)

アメリカ軍は、レイテ島に続いて、フィリピンの各島を攻撃。翌昭和20年(1945年)1月9日には、ルソン島リンガエン湾に上陸を開始しました。


         ルソン島で戦うアメリカ兵
               ルソン島で戦うアメリカ兵

ルソン島の各地で、日米両軍は激戦を繰り返しましたが、レイテ沖海戦の敗北で補給の途絶えた日本軍は次第に後退しました。そして、1ヶ月にわたる市街戦の果て、3月3日マニラが陥落

その後、日本軍は、6月ごろまで、フィリピン各地で戦闘を続けましたが、病死、餓死する将兵が続出し、次第に奥地に追い詰められ、組織的な戦闘は終わりました。しかし、降伏するものはほとんど無く、8月15日の日本の敗戦まで、小規模な戦闘が続きました。

フィリピンでの、日本将兵の戦死・戦病死は33万人を超えるといわれます。

アメリカ軍はフィリピンに上陸後、各地に飛行場を作り、制空権、制海権を確保して、日本本土からアジア各地を占領している日本軍への補給路を断ちました。

当時の日本国内では、アメリカ軍がフィリピンに上陸したことは報道されましたが、その後の戦況は、詳しく知らされませんでした。


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フィリピンの各島に残留した日本兵は、日本の敗戦を知らされてから、次々に降伏しました。

それから20数年も経ったころ、フィリピンの小さい島・ルバング島 に日本兵がまだ残留していて、その一人が投降したことから、まだ3名が残って、抵抗を続けていることが分かりました。

地元警察やフィリピン軍が捜索を続けるうちに、2名は死亡しましたが、まだ一人が残っていました。この報道は日本にも通報され、探検家・鈴木紀夫 は単身現地に入って、最後の残留軍人・小野田寛郎(おのだひろお)少尉 との接触・面談に成功しました。

鈴木紀夫の説得の結果、小野田少尉も降伏を決意、元上官が作成した命令解除文を受けて、フィリピン軍基地に入り、軍刀を渡して降伏の意を示しました。

小野田少尉は処刑を覚悟していましたが、投降式に出席したフィリピンのマルコス大統領も、軍司令官も、小野田少尉を「忠誠なる軍人」と褒め称えたそうです。

昭和49年(1974年)3月12日、小野田少尉は、51歳で日本に帰国。日本の敗戦から実に29年が経っていました。

しかし、小野田少尉は、11月17日のブログ に書いた横井庄一と違って、まるで別の国のように変貌した日本にはなじめず、兄のいるブラジルに赴いて、牧場の経営を始めました。

この小野田寛郎氏、90歳近い今も健在で、日本とブラジルを行き来していると聞いています。8月24日のブログ戦闘帽」 の写真、人物は若い日の小野田寛郎氏です。

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 小野田寛郎氏は、平成26年(2014年)1月に東京都で亡くなりました。享年91歳。

  





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最終更新日  2015年08月14日 17時22分50秒
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